知命

金八先生で、取り上げられていた茨木のり子さんの詩を引用。

知命

他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う

他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う

鋏で切れいと進言するが
肯じない
仕方なく手伝う もそもそと
生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな

まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて

ある日 突然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで

「ぎらりと光るダイヤのような日」

短い生涯、
とてもとても短い生涯
60年か70年の

お百姓はどれだけの田植えをするのだろう。
コックはパイをどれくらい焼くのだろう。
教師は同じことをどれくらいしゃべるのだろう。

子供達は地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつめこまれる。

それから品種の改良や
理不尽な権力との闘いや
不正な裁判の攻撃や
泣きたいような雑用や
ばかな戦争の後始末をして
研究や精進や結婚などがあって
小さな赤ん坊が生まれたりすると
考えたり、もっと違った自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品となってしまう。

世界に別れを告げる日
人は一生をふりかえって
自分が本当に生きた日が
あまりに少なかったことに驚くであろう。
指折り数えるほどしかない
その日々のなかのひとつには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう。

本当に生きた日は人によって
たしかに違う。
きらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ。